火よ、我とともに行かん【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第15回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第15回
【かつては「脱サラ」といった】
そういえば、かなりまえ(僕が成人する以前から)、「脱サラ」という言葉があった。会社員を辞めて起業することを示すが、辞めるだけでも、言葉の定義としては立派な「脱サラ」だ。好景気の時代には、個人の商売が成立しやすかったから、小さな商売を始めて、会社の給料以上に稼ぐチャンスが多々あった。
僕の父も脱サラで、自分で工務店を始めた人だった。喫茶店などの建設を請け負っていた。施主も、脱サラで喫茶店を始めるという人が多かった。給料の何倍も儲かる、という話をよく聞いた。そういう時代だったのである。
その父が、僕には会社員になることをすすめた。「これからの時代は、個人の商売は続かない」と話していた。僕が大学を受験する頃、父は心臓発作で倒れ入院していた。だから、これといって目指す未来はなかったけれど、なんとなく建築学科を選択した。このとき、両親は嬉しそうだった。しかし、4年生では卒業せず、大学院に進学。父も病気から復帰した。結局6年後に卒業したときには、父は自分の工務店の跡を継がせなかった。僕が大学に就職したことを、両親とも喜んでいた。あの頃に時代が変わったのだな、と今になって思う。
脱サラしても、商売をすれば、客に頭を下げなければならない。どんな仕事をしても、誰かに頭を下げ、妥協をし、我慢を強いられるだろう。独立すれば、「もう誰にも頭を下げなくて良い」なんて小さな自由は、さほど意味がない。会社を辞めて経済的に自立することで、何が変わるのかといえば、人からあれこれ命じられることなく、自分の好きなように働けることくらいだ。しかし、逆に見れば、人からあれこれ命じられることに、文句をいわず従っているだけで安定した給料がもらえる環境も、けっして悪くない。どちらを取っても、さほど差はないように僕には見える。
会社勤めでストレスを感じている人は、自営業で暮らしていけたら、と夢を見るのかもしれない。また、自営業の苦しさで悩んでいる人は、会社勤めに憧れるだろう。僕の母は、後者だった。自営業の主婦は、会社勤めの主婦よりも格段に気疲れする、とよく話していた。
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〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。